手持無沙汰な葵は、しっかりと着込んでいた上着を脱ぎ、抱えていたウオッカを早速開けることにした。
備え付けの電話を鳴らし、氷を持ってくるようフロントに頼んだ。
どかりと上等なソファに腰を下ろし、ふうと息を吐いたら前髪が天井に向かって靡いたのが視界に入った。
そのまま天井の意匠を眺め、ゆっくりと視線を部屋の中に巡らせる。
(…やっぱり、ちょっと照れるな…この雰囲気)
葛にはああ言ったが、葵は最初からこのスイートを取っていたのだった。
葵の視線は、矢張り天蓋のついた豪奢なベッドの前で止まった。
二人で寝るには、充分すぎるほどの大きさだ。
あと少ししたら、石鹸の香りをさせた葛の身体が、あの上に横たえられるのだ。
知らず締まりのない顔をしていた自分を、鏡台の鏡の中に見つけた葵は、あまりのだらしなさにはっとして思わず咳払いをした。
そのとき、コンコンとドアがノックされ、丁寧に氷が運ばれてきた。
ホテルマンに軽く礼を言い、その姿がドアの向こうに消えたのを認めると、葵はウオッカの瓶を開け、グラスに注いだ。
からん、と涼しげな音を立て、グラスの中の氷が微かな水流の中で揺蕩う。
葵がグラスに口を付けたとき、ばたんと浴室のドアが開いた音がした。
気になって仕方なかったが、敢えて葵は葛が現れるであろうリビングの入口のほうは見ず、ごくりと喉を鳴らして口に含んだウオッカを嚥下した。
その冷たい液体が掠めた喉の奥が、かあっと熱くなる。
気配を感じて、葵は視線を上げた。
「…葛」
思わず、大丈夫か?という言葉が口を突いて出てしまったくらいに、そこにいた葛はいつもと違いすぎた。
赤く染まった頬。
風呂上りでも普段は撫で付けているぬばたまの黒髪は、無造作に垂れている。
潤んだ瞳。
なんだか、いつもの壁が、ない。
(これなら、いけるかも…)
楽観的な葵は、そう思った。
「葵、おまえもさっさと風呂に入れ」
さっきよりも掠れた声で、葛は言った。
「そ、そうだな!」
早く葛と一緒に床に就くために、葵は素直にそれに従う。
ばたばたと慌ただしくバスルームに向かった葵だったが、すぐに再びドアから顔を出した。
なんだと葛は不審をあらわにし、一瞥した。
「すぐ、出てくる!」
そう言って、にっと笑って去って行った葵に、葛は「別に待っていない」と呟いた。
しかし、声があまりに掠れて、その呟きはほとんど言葉にはならなかった。
葛は潤んで熱くなる眦と、重たくなる頭と身体に、これは久しぶりに風邪らしい風邪をひいたと実感した。
南の上海から凍土の国満州へ向かうと聞いたとき、その寒さは内地と比にならないと思い、こんなこともあろうかと『美味改源』を荷物に入れてきたが、それが役に立つときが来た。
心なしかふらつく足取りでその薬を荷物から探り当て、グラスの置かれたテーブルに載せた。
普通は茶で飲むのだが、今はそんな時間があったら早く横になりたかった。
スパイ稼業は、そう甘くない。
体調不良だろうがなんだろうが、いつどんなことが襲い掛かってくるかは運次第だ。
さっさと風邪を治すに限る――――
葛の頭の中は、その考えでいっぱいだった。
熱くなった指先で茶紙の口を開き、いっきに粉を呷る。
そうして、お誂え向きにグラスに注いであった『水』を流し込んだ。
粉薬は上手く流してしまわないと、後始末に手を焼く。
だから、グラスの中に入っていた『水』を、全部飲んでしまった。
(え)
瞬間、葛の身体を違和感が包む。
慌てて口を塞いでみても、何の助けにもならない。
ぐにゃりと歪む視界の中で、グラスだけは割らないようにと何とかテーブルの上に置く。
(しまった…)
床ではなく、せめてベッドの上で倒れたい。
(くそ、葵のやつ…)
実際葵に落ち度はまったくないのだが、熱に浮かされた葛の思考回路は、若干短絡的になっているらしい。
そう、葛が水と勘違いして飲んでしまったのは、葵がちょっと口をつけて残したウオッカだったのである。
そもそもそれを水と信じて疑わなかった自分の不注意だということは、充分わかっていた葛だったが、もしや葵が気を利かせて風邪薬を飲むための水を用意してくれたのかもしれない―――などとふと考えてしまった己の愚かさに辟易した。
立っていられないほどの酩酊感をぐっとこらえ、何とかベッドまでたどり着いた葛は、その上に倒れこむと、苦しげに眉を寄せ目を閉じた。
身じろぐたびに密やかにする衣擦れの音は、葵には届くはずもなかった。
つづく
内地の桜は、もう散ってしまっただろうか。
そんなことをぼうっと考えながら、葛は車窓から奉天の町並みが飛んでいくのを眺めていた。
いや、眺めているといっても、容赦なく窓ガラスを舐める雨が煙って、その輪郭はどうしようもなくぼやけている。
「春だというのにね。勿体無い」
軽い溜息交じりで、隣に座っていた高千穂勲が呟いた。
勲の呟きは、いつも歌うような調べを持っている。
車内には、中隊附きの運転手と、勲と葛の三人が居た。
雨の日独特の湿り気を帯びた空気が、漂う術もなく停滞している。
いつもの定位置。
車に乗るときはいつも、後部座席の右に葛、左に勲というのが暗黙の了解となっていた。
それは、あの日以来―――葛が『こちら側』に来たときから、ずっと。
舗装された道路の上に小石でも転がっているのか、たまに車体が小さく揺れる。
そのたびに窓に滴る雨だれが大人しく弾け飛んだ。
瀋陽故宮を背にして、同善堂の横を通り過ぎる。
今日は雨なので、流石に孤児や行き場をなくした老人たちの姿は見えなかった。
このまままっすぐ行けば、奉天駅前に出る。
ざあ…あ…
風に揺れる雨足が、遠くなり近くなりして聴覚に木霊した。
「今日は五龍背まで行くからね。安奉線に乗って、午後までには着くだろう」
上官の言葉に、流石に窓の外を見ているわけにもいかず、葛は「はい」と相槌をうち勲を見た。
かちり、とトランクの金具を閉める音を鳴らしながら、勲はにこりと微笑んだ。
「伊波くん、温泉は好きかい?」
「え」
勲の言葉に一瞬葛は微かに瞠目したが、次の言葉を待たぬうちに心中で合点した。
五龍背は、湯崗子・熊岳城と並ぶ満州三大温泉のひとつであった。
「日清戦役のときに、我が皇軍が発見したところさ。閑雅幽遠との評判らしいね。唐の太宗も高句麗遠征の折に訪れたという話も残っている」
ばさり、と先程トランクの中から出した地図を広げ、勲は奉天駅から目的地までの路線を指でなぞった。
見てごらん、と目で促されたので、葛は地図に顔を近づけた。
その瞬間、キキイ、とブレーキをかけた車体が、濡れた道路に止まった。
慣性で葛の身体は前にのめった。
「ゎっ…」
「おっと」
ぐしゃりと紙の歪む音が聞こえた次の瞬間、葛は勲の膝の上に手をついていた。
ざああ…
一瞬の沈黙を、雨の音だけが支配した。
「す、すみません、大尉…!」
葛が慌てて手を勲の膝から離した。
「いえいえ」
思わぬ失態に顔を赤らめ、葛は皺の寄った地図をのばしにかかる。
運転手の謝罪の言葉も、遠くに思えた。
その様子を面白そうに眺めながら、勲は運転手になにやら用事を言いつけた。
ゆるゆると車は大通りの路肩に止まり、運転手がドア越しに蝙蝠を勢いよく開いて出て行った。
雨音が車内に響き渡ったのもつかの間、バン、とドアの閉まる音がして、またも外界と二人を画った。
八時には列車が出る。
充分余裕を持って出たので、まだ早朝だった。
とはいえ、春なので日の出もだいぶ早まっている。
人影はまばらであったが、大陸のことだから、あと小一時間もすれば通りは人の往来が激しくなるだろう。
何故運転手が出て行ったのかと、口には出さずに疑問に思った葛に、勲は微笑む。
「奉天を出る前に、荷物をひとつ預からなくてはいけなくてね。取りに行ってもらった」
「はあ」
何でもお見通しのような勲の言葉に、葛は情けない返事をするしかなかった。
「ほら、見てごらん」
がさり、と地図の擦れる音がした次の瞬間、葛は息を呑んだ。
「……っ」
気付けば、葛は勲の腕の中に居た。
逃げ出そうという気だけは起こったが、勲の右腕と地図に阻まれていて、地図が破れてしまうかもしれないと思い直した。
そんな自分の思考回路に、葛は動揺した。
「もっとこっちにおいで?」
「!」
くすくすと笑いをこらえながら、勲は更に葛の身体を抱き寄せた。
ざああ…あ…
相変わらず、雨の音が四囲に木霊している。
「大丈夫だよ、この雨だ。外からは見えない…」
耳元で囁かれ、思わず葛は肩を竦める。
「た…、大尉」
「見たまえ」
葛の必死の抵抗の言葉を、あっさりと勲の言葉がさえぎった。
ばさりと勲が地図を広げなおした。
そこには、赤い×印がいくつか描かれていた。
「なにも、物見遊山にいくというわけじゃない」
葛は、勲の言葉に宿る幾許かの真剣さを感じ取り、その印を見つめた。
安東――― 朝鮮との国境の町。鴨緑江のむこうには、新義州。
撫順――― 石炭の露天掘で有名な、満州一の燃料庫。
「撫順はね、『炭の都』と言われていて、約十億トンの石炭が埋まっているんだ。これからは石油の時代だけれど、汽車はやはり石炭で走る。軍事上最も重視される兵站においては、今のところ鉄道が一番の手段だろう」
勲はしなってきた地図を広げなおして、そう呟いた。
「確かに…日露開戦においても、シベリヤ鉄道の存在が大きかった…」
地図を凝視しながら、葛は思い出したように唇を動かす。
「…きみにも、色々と見せておきたい。…今のうちに、ね」
そう言って、勲は地図をたたんだ。
きっと、五龍背では、何らかの会合があるのだろう―――
葛は、そう推測した。
「でも」
途端、勲はいつもの陽気な調子に戻った。
その落差に、思わず葛も顔を上げる。
「折角だから、温泉も楽しむべきだよね?なんならゴルフも…」
さっきまでの張り詰めた空気は一瞬で霧散し、葛は眉間に軽く皺をよせて大尉、と窘めるように言った。
いい加減、この状態から解放して欲しい。
いつ運転手が戻ってくるかもわからないのだ。
ふ、と勲は笑むと葛の白い顎に指をかけた。
ゴロゴロゴロゴロ…
遥か天上で、唸るような音がしたと思うと、閃光があたりをつつんだ。
ド…ン
空が重く鳴る音が、遅れて小さく響く。
ざあああああああ…
雨が森羅万象をたたく音のほうが、大きく聞こえている。
「大尉、雷…」
少しもこの状況に動じない勲に、葛は呼びかける。
勿論葛とて、雷が恐いわけではない。
この状態に、耐えられなかっただけだ。
「ぼくはね、右利きなんだ」
「は?」
上官に対して随分と失礼な物言いだが、突拍子もない勲の言葉に、葛はそんなことに気付きもしない。
「だからいつも、こちら側に座る」
ますます意味がわからない、というふうに、葛は狭い車内で気持ち後ずさった。
それを追うように、勲の右腕が葛の腰に降りてきた。
「隙あらば、きみと…こうしたいから」
勲の唇が、葛の耳元で密やかな音を紡いだ。
「大尉…っ、た…」
ついに葛の身体は逃げ場を失い、シートと窓の間にずるずると滑り落ちた。
ゴン、と後頭部が窓ガラスに当たりくぐもった音を立てる。
勲の唇が葛の柔らかいそれを捕らえたとき、再び雷鳴が遠くで響いた。
衣擦れの微かな音や漏れる吐息は、雨音の間に間に消えていった。
念願の勲葛が書けたハアハア! 急に思いついてガッと! 車の中ではちゅうまでだよ(ちょ)!
それは小さな小さな歪みのときもあれば、修復しようのない亀裂を生みだすこともある。
兎角後者の場合、相反する性質を持った人間が狭い空間の中に相対したときほど性質の悪いものはない。
特に生活習慣についての齟齬は、お互いのそれまでの人生の正当性が賭かっているので、歩み寄ることは難しい。
三好葵と伊波葛は、目下其処のところで小競り合いを繰り返していた。
「葵…!葵!」
葵が風呂上りの洗いざらしの髪をタオルで拭きながら、リビングテーブルに座っているところに、葛がけたたましい足音を立ててやってきた。
バアン!と居間のドアが開くと、そこには普段からつり上がっている目をさらにつり上げた風情の葛がいた。
「葵、貴様、何度言ったらわかるんだ…!?」
地の底を這うような低音で、葛は葵を圧迫する。
「何がよ」
怒った顔も可愛いんだよなあ…などと思ったことは、今の葛に言ったら三途の川を渡ることになりそうなので、葵はへらっと笑うだけに留めた。
「何が、だと…? あれだけ言っただろう、風呂から上がるときはきちんと身体を拭け、と…!!」
葛は葵の側に歩み寄り、テーブルの上を拳でゴンと叩いた。
「ちゃんとしたさ」
葵は自分の行いを振り返り、きっぱりと葛に言う。
「どこがだ…?」
静かだがそこはかとない苛立ちを含んだ呟きを吐き出すと、葛は葵の寝巻きの片襟を掴んだ。
「なに、まだするには早くないか?」
葛のほうから近づいてきたのを良いことに、葵は調子に乗ってその腰に腕を回した。
そのとき、ぴき、と空気が割れた音が聞こえたような気がして、葵は背筋を凍らせる。
「き…さ…ま…ッ」
「ちょ、わっ、待って待て待て葛ちゃん!?;;;; 暴力反た…」
怒りに打ち震える葛が葵を床に沈めるまで、ほんの数秒しかかからなかった。
今日はここまで…; 中途半端でスイマセン…
※当作につきましては、15歳未満の方の閲覧はご遠慮ください。
暦の上での夏は行き過ぎた。
ただ、それはあくまで季節を管理するための数字に過ぎず、残暑どころかいまだ夏真っ只中であるかのような塩梅だ。
亜熱帯気候の上海は、相変わらず黄浦江から蒸発した水分が大気に満ち満ちて、蒸し暑いことこの上ない。
建物じゅうの窓を開け放しても、凪が続く昨今はまったくと言っていいほど意味がなかった。
江戸の人々は夏になるとほとんど働かなかったが、今はそんな暢気なご時勢ではない。
たかだか数十年前までの徳川三百年も夢のあと、今や帝国主義・覇権主義が世界を席巻し、回り回ってその呷りを受けたふたりの男たちが、ここ上海に居た。
「あ、お…い…っ」
戸外で命を燃やすように啼き喚く蝉の声を、意識の端で聞きながら、葛は快楽とも苦痛ともつかぬ溜息を漏らした。
暗室の中は例の赤い光のみ。
一歩外に出れば、灼熱の光線が地面を灼いているというのに。
プラタナス並木の緑が、通りに濃い影を落としモザイク模様を描いているというのに。
滔々と湧き出る二酸化炭素を含み、暗室内の空気は湿り気を帯び澱んでゆく。
日常にするりと現れた非日常。
否、それはやはり彼らには――一抹の後ろ暗さを持つ彼らにとっては――日常なのかもしれなかった。
葛の身体を乱暴に開いてゆく葵からは、酒と紫煙の残滓が漂っていた。
まだ陽は高いというのにこの相棒の体たらくはどうしたことか――――
常の葛であれば、即座にこの手を振り払い胸倉を掴んででも冷水を浴びせてでも彼を叱責したに違いない。
―――何度か、こういう葵を、見たことがあった。
葵はアルコオルはそこそこやるが、喫煙に関しては嗜みの範疇に入っていない。
ただ、嗜みはしないが、経験はあった。
若い男ならば――しかも海外経験のある者なら尚のこと――誰もが一度は通る道である。
酒の類は葛も相伴するのでいくつかの銘柄が厨に備えてあった。
この葵の様子なら、屹度それらの殆どが消費されてしまっているだろう。
まだ昼になったばかりの時分に、葵は帰宅した。
葛は丁度その時野暮用で大馬路界隈に出向いていたので、帰宅した葵とはすれ違いになった。
流れる汗を拭き拭き写真館に戻ってきたときには、既にリビングには酩酊した葵がいた。
葛の知らないシャツとスラックスを身に着けた葵が、ソファに埋まったまま「よお」と酔いの回った目で笑った。
この状態ではまともな会話は望めないだろうと判断した葛は、無言で頷いただけでリビングを後にし、残りの仕事を片付けるべく暗室に向かった。
「葛ぁ」
背後から呂律の回らぬ葵の声が聞こえたが、呼ばれた当の葛は聞こえないふりをして暗室のドアノブに手を掛けた。
後ろ手でドアを閉め、葵の居る空間と己のそれを画ろうとした瞬間、強い力でドアが押し返された。
「葵」
葛は仕事の邪魔だ、という意を込めて強靭に葵の名を呼び、その存在を暗室から締め出そうとした。
今の葵の様子を見るに、これしきのささやかな恫喝ではまったく意味がないことは明白だったが、酔っ払い相手に律儀に目くじらを立てても費用対効果の面で釣り合わない。
「葵」
「なんだよおまえ、」
葛の二度目の拒絶の上に、葵が横隔膜を痙攣させながら言葉を被せた。
「任務から帰ってきた…、相棒に…、労いの一言も…っ、無いのかよ…?」
どん、と肩を押され、暗室の中に閉じ込められた。
ばたん、と大きな音をたててドアを閉めた葵の顔を、赤い光が妖しく照らす。
赤と黒の、強いコントラストに象られた奇妙な世界に、ふたりは差し向かう。
「葵…、おれはこれから残りの仕事を…」
するから邪魔をしないでくれないか?と、葛は大きな溜息をつきながらそう続けようとした。
その瞬間、襟を掴まれ強く引き寄せられ、名前を呼ばれた。
作業用の前掛けの肩紐の右が、するりと衝撃で滑り落ちた。
「………っ、」
唐突すぎる葵の行動に、葛は肩紐を直しながら抵抗した。
口腔一杯にブランデーの味が広がり、葛は柳眉を顰めて葵の腕を振りほどこうと身じろいだ。
「あお、」
こいつはこんなに酒癖が悪かったか?――葛は縋ってくる葵をなんとか引き剥がし、記憶の糸を辿ったが、その先にはこんな風に悪酔いをした葵の姿はなかった。
『い』の音を葛の唇が象る前に、またも葵が強引にそれを塞いだ。
「…んん…!」
抵抗の声が、喉の奥でこむら返りをうつ。
いい加減にしろ、と葛は葵の肩を軽く数回拳で叩いてこの悪ふざけを終わらせるよう促したが、果たしてふたりの間には確固たる温度差があった。
葵はそんな葛の両手首を強く抑えると、邪魔だと言わんばかりに作業台の脇の壁に勢いよく押し付けた。
その痛みに葛は息を呑む。
葵の状態が尋常ではないことに、今更気付いた自分を恨めしく思った。
「おれが、出て行くときと違う服を着ていても…、何も、思わない、の…かよ…ッ」
赤い光の中で間近に見る葵の顔が、一瞬泣いているかのように見えて、葛ははっとした。
それに気を取られ、葵への抵抗に割く脳の命令系統の動きが鈍る。
葵は、その隙を見逃さず、力任せに葛の身体を引き倒し、床に張付けた。
「葵…っ!」
したたかに後頭部を打ち、葛は苦悶の声を上げ、自分を支配しようとする男を睥睨した。
しかし葵は怯むことなく葛の喉元に噛み付いた。
―――今回の任務は、桜井機関単独で行うものではなかった。
今後の点数稼ぎの為に、と機関長の桜井少佐はあの胡散臭い笑みを浮かべ、念動力の持ち主である葵のみを選抜した。
普段は雪菜と棗の後方支援を受け、葛とともに前線要員として動く葵にとって、この任務は初めての経験であった。
その内容は、あくまで『支援』―――しかもこちらの雇い主である陸軍とは仲が良くない筈の、海軍某機関との連携―――というもので、葵が特務機関員たる所以であるその『特殊能力』も、発動時には絶対に気取られてはならないことが至上命令であった。
本土の情勢が右傾化してきたことや、不穏な影がちらつく大陸事情などが相俟って、陸と言わず海と言わずそのへんは情報収集だの何だのと、色々躍起になっているに違いない―――
葵は大人の事情については深く考えることを止め、桜井から渡された資料や暗号、メモや地図を机上に並べ、
ひたすらその内容を白紙に書き取り、完全に頭に入るまでその行為を繰り返した。
これから関わる全ての人物の名前――偽名かどうかはあえて関知しない――と、機関のコードネーム、
上位下位の人間関係、上海の暗黒街の顔役、その靡下勢力の員数―――
葵はその出来の良い頭脳に、これらの情報を紙に記した映像ごと一枚一枚刷り込んでゆく。
全ての行程を終え、ジャケットのポケットを弄り、手首を器用に返してバンジョーを勢いよく点けた。
証拠隠滅には必須なので、普段からライターの類は携帯している。
それまでの下準備に使った紙束に火を移し、大きめの灰皿の上にぽんと落とした。
その炎を明るい色の瞳に映しながら、葵は今回の任務の勝手違いを思い心なしか肩を落とした。
何しろ特殊能力を持つのは自分だけで、しかも『支援』要員なのだ。
それに、いつも自分の後ろになり前になり支えてくれる葛がいない―――
(は、おれは何を)
そこまでの思いに到り、葵は自嘲の笑みを漏らしながら固い前髪を掻き毟った。
視界に入った腕時計の針が時を刻む音が、やけに大きく聞こえた。
華街の里弄を、無茶苦茶に走った。
どこをどう走って今ここに居るのかさえ、葵は把握していなかった。
とにかくこの状況を何とかしなければ、帰るに帰れない。
葵は息を切らしながら血に濡れたジャケットを脱ぎ、汗で撚れたネクタイ諸共近くにあった芥箱に打ち捨てた。
しかしシャツとスラックスにも、誤魔化すことの出来ないほどの血糊がついている。
はあはあと息を切らし、裏通りに身を潜めながら葵は彼方にある冷静さを手繰り寄せ思考した。
幸いここは南市の旧城内だ。
北西方向に少し行けば、そこは仏蘭西租界であり、厄介な工部局の手も及ばない。
共同租界よりも仏蘭西租界は実利主義で、税収を上げるために後ろ暗い組織にも門戸を開き、阿片窟や売春宿が堂々と軒を連ねている。
自然その境界地帯は、あらゆる犯罪の温床となっていた。
個人主義がお国柄の仏蘭西人は、使用電圧まで共同租界の220ボルトと差別化をはかり110ボルトにした。
当時の上海では二種類の家電が必要だったのである。
ここまでの拘りを持つ仏蘭西租界には、阿片取引により裏社会で大きな力を持つことになった青幇の大ボス・杜月笙の邸宅がある。
更にその近くには、杜月笙が上海でのし上がる切欠を作った大物・黄金栄邸も建っていた。
屹度辺りは組織の末端を構成する柄の良くない者たちも多いに違いない。
裏通りで血が流れるなど日常茶飯事であろうから、そういった便宜を図る場所もあるはずだ。
上海で生きていくためには、知らないふり、見ないふりをすることが一等利口だということは、力を持たぬ庶民の間では暗黙の了解となっていた。
そういう事情を理解した店で、三つ揃えでも支那服でもいい、何とか新しい服を都合できれば―――
風呂にも入りたいが、この際それは贅沢だと葵は思い直す。
とにかく、まずは身繕いをする。
気が重く面倒極まりない報告は、その後だ。
葵は桜井少佐の苦い顔を思い浮かべ、眦に皺を寄せた。
地面を見つめ、一歩を踏み出したとき、石ころを蹴飛ばした。
てん、てん、と小さな音を立て弾み転がってゆく様を、何とはなしに視界に入れた先に、見覚えのある黒い人影が立っていた。
「……!」
アンタは、と葵が口にする前に、その黒スーツの男――壱師――は、こちらに来いと言わんばかりに顎で裏通りを示した。
震える手で、グラスにブランデーを乱暴に注ぐ。
グラスの縁のラインに沿って飛び跳ねた琥珀色の飛沫が、テーブルを濡らした。
そんなことはお構いなしに、葵は胸ポケットの中で半ば潰れかかっているバットのケースを握り締めるように取り出し、そのうちの1本に火を点けた。
それを落ち着きなく吹かし、吸い込んだ煙をまた体外へ追いやる。
右手の人差し指と中指で煙草を挟み、残りの指で掴んだグラスを口へ運ぶ。
中身をいっきに飲み干し、力任せに空のグラスをテーブルの上に戻すと、灰皿代わりの皿にまだ吸う余地のある煙草を押し付けた。
葵は再びバットを1本引き抜くと、火を点け大きく煙を吸い込みながら、ソファに埋もれた。
ふう、と音を立てて長く吐き出された紫煙が、リビングの天井へ昇ってゆく様を眺めながら、事の顛末に思いを馳せる。
閉じた瞼の裏で、桜井少佐はしかめ面をするどころか、またあの胡散臭い顔で笑った。
知らず葵の眉間には深い皺が刻まれた。
―――葛が居なくてよかった。
こんな自分を見られずに済んだ、そう安堵する傍らで、今すぐにでも彼に触れたいと思う。
矛盾だらけ、僻事だらけ。
自分自身も、帝國陸海軍も、中国もみな―――
バットのパッケージが視界の端に映り、この国では蝙蝠が吉祥のシンボルだということを思い出した。
日本では忌み嫌われる存在が、ここでは幸運の証―――
道理でだ。
道理で滅茶苦茶が、非道理が通るはずだ。
葵は上体を起こし灰を皿の上に落とすと、昂ぶった精神を静めるように右手の親指で額を掻いた。
「葛…」
葵はそう呟くと、またソファに埋もれ思考の淵に己を沈めた。
それは一瞬の出来事だった。
葵が能力を発動させる隙も無いほどの、ほんの数秒の間に悲劇――と、この世界で生きる人間たちは認識するかどうかは定かではない――は起こり、そして終わった。
上海の名だたる観光地――豫園界隈――所謂豫園商城の茶館に、葵は居た。
いつもははね放題の明るい髪をきちんと撫でつけ、背広もよくあるタイプのものを選んだ。
これでボルサリイノでもかぶれば、普段の葵を知っている人間でもすぐには気付かないだろう。
ふと窓の外に目を遣ると、清朝末期から続く商店が路地の両側に所狭しと立ち並ぶその十字路の中点で、西洋鏡が演っており野次馬を集めていた。
流暢な口上が流石なのか、それとも上海人が好奇心旺盛なのか、順番待ちで黒山の人だかりである。
豫園界隈のランドマークといっても過言ではない、明代建築の湖心亭の特徴ある屋根が、ここが江南地方であることを物語っている。
ただでさえ人が多いのに、その袂に架かる橋――九曲橋――は、真っ直ぐに飛んでくる邪気を近寄らせないという縁起のために複雑に曲がっており、人々の足を止めていた。
(銀座や浅草じゃ比べ物にもならないな)
兎角大陸はどこへ行っても人いきれで溢れかえっている。
葵は階下の混雑から視線を引き剥がし、目の前に背中を向けて座る男に据える。
灰色の長袍を身にまとったその男は、葵より少し上くらいであろうか――海軍某機関の機関員で、彼が此の度拝した任務は潜入捜査――つまり二重スパイであった。
葵は、男の顔とその辺の大まかな事情しか知らない。
それとは逆に、今回の下準備における裏社会の情報に関しては、何かと豊富であった。
もともと犬猿の仲の帝國陸海軍であるから、余計な詮索はお互い無用ということなのだろうが、今回こういった巡り合わせとなったのは屹度、どこか上のほうで利害の一致があったのだろう。
ただ、何かと不便だったので、葵は勝手にその男を『山田某』と名づけた。
男も葵と同じであった。
こちらのことは、ただの『支援』要員とだけ伝わっているだろう。
もしも男が紆余曲折を経てこのような任務に着いたなら――もともとが生粋の軍人出であれば、陸軍所属のこちらのことをあまりよく思っていないかもしれない。
流暢な中国語に、市井の人間としか思えない振る舞い――もしそうならば、男はたいした役者であった。
葵はただ、この男につかず離れず、何かの時には能力を密かに発動し『支援』してやればよいだけであった。
しかも、日中のみでいいというのもいまいち緊張感がない。
だがそれも命令であるから、従うほかはない。
(大方阿片市場に少しの隙でもあれば割り込もうって寸法なんだろうが…)
阿片は金になる―――それは葵だけでなく、上海に生きる者、否、帝国主義の牽引者たる列強の間では周知の事実である。
資源に乏しく国土も狭い日本が欧米列強と渡り合ってゆくためには、息の長い資金源が必要だった。
今回の海軍機関の介入を見るに、ワシントン会議以来のネイバル・ホリデイもそうは続かぬということかもしれない。
先年のロンドン会議の一件は、統帥権干犯だのなんだのと政府と軍部が火花を散らす事態にまで発展した。
(スマートなだけじゃ、海軍さんもやっていけないってことか)
阿片により開かれ、阿片により搾取され、阿片によって成り立っている街、上海。
幕末のとある志士は、上海の惨状を目の当たりにし、日本は決してこの国の二の舞にせぬと心に誓い、東奔西走した。
(まさに、魔都だね)
葵は茶を啜り、ほのかに鼻腔をくすぐる茉莉花の匂いに目を細めた。
余計なことは、知らぬが仏―――こと情報の扱いに関しては特務機関もアカも同じであった。
重要なことは、お互い知らされず、ただ己の任務に忠実であればよい。
歯車は所詮歯車、全てを把握しているのは中枢のみでよい。
万が一敵に捕らえられ拷問による自白を強要された場合でも、知らないことは逆立ちしても話せない。
いかに機関員が鋼鉄の意志を持っていたとしても、どこかで綻びが生じた途端芋蔓式に組織は瓦解する。
蜥蜴の尻尾切りのように、尻尾――末端要員――が欠けても補充は利く。
葵はそこまでの思いに到り、これ以上考えるのが面倒になった。
何事もなく任務が終わればよい。
そうして写真館にいつものように戻る。
ふ、と仏頂面の相棒の顔が脳裏を掠め、頭の中がむず痒くなった葵は椅子に大きくもたれ息をひゅうと吐き出した。
頭上にぶら下がる六角形の燈篭の朱房が、微かに揺れたような気がした。
「我慢々来、真対不起…、因為車子多、不能走…!」
〈遅くなって本当にすみません、車が込んでて動けなかったのです〉
八宝飯が『山田某』の卓に運ばれてきた直後、鳥打帽を小脇に抱え汗を拭きながらひとりの男が現れた。
9/2 初出 9/3、9/4、9/7、9/15追記
もうイベントの準備しなくちゃいけないことに気がつきました!;; なので先にこれ終わらすのは無理っぽいですスイマセン(汗)
ちょこちょこ地味に更新していきますので お暇なときにでも覗いてやってください;;
完結するまで上にあげておきます(←忘れ防止) かずらちゃんも同様…! ワーン!;;
「葵サン、嘘ついたな」
「え?」
別れ際、風蘭の思わぬ一言に、おれは動揺を隠せなかった。
不意打ちをくらったおれの顔は、きっと鰯の胆もかくやというほどの苦いものだったろう。
奉天で運命の(?)再会を果たしたおれたち。
わずかだが、久しぶりの楽しい時間を共に過ごした。
風蘭とやりとりをするうちに、ここには居ない人間の残滓が、おれの四囲を取り囲んだ。
想い出は、いつだって、残酷だ。
それを解き放つ鍵は、世界中其処此処に散らばっている。
ふと気付いてみれば、地雷源を歩いているようなものだと自嘲したくなる。
内地とは違う、大陸の風のにおい。
美味そうな饅頭の、温かい湯気。
それを売る美姑娘の、鈴を転がしたような笑い声。
聴覚や嗅覚で感じるものは、視覚で捉えるそれ以上に、人間の記憶を強烈に呼び覚ます。
それは、本人の意思とはまったく関係なく、いとも容易く裡に眠った鍵穴を抉じ開ける。
それに気付かぬ振りをすればいいのに、一度開いた扉はなかなか閉まらない。
嫌だな、こんな時に。
思い出したくないのにな。
「なにがあったか知らないけどナ、葛サンと、仲良くしなくちゃダメネ」
「何だよ風蘭、いきなり…」
「誤魔化そうったってそうはいかないネ、上海の美姑娘、なめちゃいかんゼヨ」
「ぜよ、って…」
「さっきから風蘭、葛サンって言うたびに葵サンなんだか変なカオしてたゾ」
「え」
「カオは口ほどに物を言うネ!」
「それを言うなら、目は口ほどに物を言う、だろ?」
「う…、ま、まあ、そんなことどうでもイイネ、風蘭葵サンと葛サンの、一見仲悪そうで実は仲いいトコ、スキね!だからふたりとも、風蘭のタメに仲良くシロ」
「命令かよ…」
そう言って、おれはため息混じりに笑った。
それを見て、風蘭も微笑んだ。
いつもの風蘭とはちょっと違う、落ち着いた笑顔だった。
「風蘭いつまでもこんなトコロでくすぶってナイネ、いつか上海帰ってまたお店出すヨ!」
「風蘭…」
「ダカラ、またふたりで風蘭の店、食べに来るヨロシ。いっぱいサービスするゾ!ああ、今度はあの二人も一緒ネ、四人揃って来るネ」
「風蘭」
「葵サン、約束ネ!」
今度はいつもの満面の笑顔で、風蘭は小指をおれに差し出した。
「コレ、日本式誓いダロ?」
「………」
何やってんだろな、おれ。
こんな娘っ子に励ましてもらってら。
「わかったよ、いつか、上海で!」
「オウ!絶対に絶対ナ!!嘘ついたら針千本ぶっ刺す、ネ!」
…それを言うなら、針千本飲ます、だよ、風蘭。
そうして、おれたちは固く指切りをした。
「謝々、風蘭」
おれは感謝の意を述べ、風蘭の頭に手を載せた。
「不謝、不謝!」
それと、写真も忘れないでね―――そう最後に言った風蘭を見て、おれは、彼女の背が少し伸びていたことに気が付いた。
なあ、葛。
上海の写真館のリビングで、おれたちはいっつもこんな他愛のないやりとりをしていたっけ。
おれと、おまえと、風蘭と。
あの家の、歪んで閉まりの悪い引き戸、リビングのテーブルについた傷、庭に咲くリラの色と香り…
そんな、なんでもない数々の記憶が、今、おれの中で渦巻いているよ。
なあ、葛。
おれはまだおまえに何も言ってないんだよ。
大切なことは、なにひとつ、伝えてやしないんだ。
なあ、葛。
おれはもっとおまえのこと、知りたいよ。
おまえの本当の名前、なんて言うんだろうな。
おれの本当の名前も、絶対に教えるから、いつか呼んでくれよな。
そうだよ、葛。
約束したんだ。
風蘭と、誓ったんだよ。
またふたりで、上海に戻ろう、
そうして、悠久なる長江に繋がる、黄浦江の風に吹かれて、
サッスーンハウスの右を通り抜け、まっすぐ進んで、ガーデンブリッジを渡ろう。
ほら、ロシヤ領事館の向こうに、アスターハウスが見えれば…
そこは、おれたちが一緒に過ごした、虹口だよ。
また、あの家の鍵を開けて。
あのリビングで。
おれと、おまえと、風蘭と―――、雪菜や棗も誘ってさ。
今度は、皆でいっしょに写真を撮ろう。
おれが撮影、おまえが現像。
おれとおまえで、当代一の出来にしようぜ。
―――なあ、いいだろ?葛―――。
「ぱっぱらっぱぱっぱっぱっぱ、ぱっぱらっぱぱっぱっぱっぱー!!」
琢磨の前を走りながら、西尾が大きな声で進軍ラッパの口真似をする。
「琢磨、速く駆けろ! おれたちは帝国陸軍だ! 露助どもを今から撃破する!」
「拓ちゃん、待ってよ!」
当時、日清日露の戦争ごっこが子供たちの間ではおきまりの遊びだった。
勿論、必ず勝つのは日本である。
そうなると、子供たちの中で権力のある者――所謂餓鬼大将――が、必ず日本軍となるのだ。
戦争ごっこは、少数では面白くない。
だから、このあたりの餓鬼大将である西尾は、今日も十数人に召集をかけ、その勝敗が決まりきった遊びを始めた。
毬栗頭の子供たちが、わらわらと各陣地へ散ってゆく。
ごっこ用にみんなで掘った蛸壺へ一目散に駆けて行くもの、意味のない匍匐前進をするもの――
生意気盛りの子供たちは、はちきれんばかりの雄叫びを上げて、お互いの士気を鼓舞した。
西尾拓と岸田琢磨は、不思議と気が合った。
同じような名前を持つことも、二人の間に子供じみた連帯感を持たせていた。
西尾は餓鬼大将なだけあって、我が強い。
しかし、それだけでは唯の我がまま坊主で終わってしまうが、彼にはどこか人を惹き付けるものがあった。
子供心にも琢磨はそれを感じ取っていたので、そんな西尾といっしょにいることが楽しかった。
だから、この『必勝』である戦争ごっこも好きで堪らなかった。
油蝉が遠くで鳴いたと思えば、頭上でミンミンゼミが喚きだす。
専らの遊び場である鎮守の杜は、夏色を満たし、生命の息吹が鬱陶しいくらいに渦巻いていた。
木々の隙間から漏れる木漏れ日が、乾いた地面に幻想的な模様を描く。
青い空に、鳥居の古びて茶けた朱色が滲む。
「岸田大尉、我が軍の趨勢はどうなっておる!?」
西尾『大将』が、後方から『偉そうに』聞いてきた。
戦争ごっこの醍醐味は、活動のような台詞回しだった。
これがきちんと言えるかどうかで、臨場感が変わってくるし、まるで本物の帝國軍人になったかのような誇らしさも感じられる。
腕白坊主たちは、競って難しい言葉をよく意味もわからずに使った。
ただ、西尾と琢磨は違った。
二人とも学問にも運動にも長けていて、違うのは身体の大きさとその気性くらいであった。
背丈は西尾のほうがやや大きかったので、琢磨はいつも走り負けた。
「いつか抜かしてやるからな」と、駆けっこで負けるたびに西尾に言っていた。
精神的にも、身体の大きな西尾のほうが早熟だった。
二人は世間的には文武に亘り双璧と見做されていたが、実際は餓鬼大将の西尾が琢磨の一歩先をいつも歩いていた。
琢磨は何かしらの勝負事に負けると、西尾に対しそれなりの悪態はついていたが、そんな立ち位置が別に嫌ではなかった。
祖母にそんなことを言おうものなら叱責されそうだと思ったので、表向きは悔しがったりもした。
また、琢磨は常に『正道』の二文字を基準に物事を見るが、西尾は違った。
琢磨の判断の斜め上方から、斬新な方向性を示唆してきたり、時にはまったく相反する意見を理路整然と述べ、琢磨を納得させてしまうこともあった。
そんな西尾の得体の知れぬ勢いに巻き込まれている状態が、琢磨にとってとても居心地のいいものだったのだ。
「はっ、現在ロシヤ軍と前線で睨み合っております!」
地面に腹ばいになりながら、琢磨は西尾『大将』に敬礼をし、そう答えた。
以前琢磨は「拓ちゃんが大将なら、ぼくは中将にしてよ」と迫ったことがあった。
餓鬼大将の西尾以上の階級には当然なれないので、次席の中将を希望したのだが、
「ばっかだなあ、琢磨。そんな高官ばっかりじゃ真実味がないだろ」
と、一蹴された。
最初は少尉を任命されたのだが、そこは琢磨も食い下がり、なんとか大尉でお互い手を打った。
「ふむ、我が軍と敵軍の員数は?」
西尾はカイゼル髭を撫で付ける真似をしながら、琢磨の横に匍匐で近づいた。
「我が軍5千、敵軍1万であります!」
琢磨は双眼鏡を見る動作をしながらそう答えたが、実際は味方は二人だけであった。
それは、西尾の好きな戦争ごっこの筋書きが、少数だが精強なる皇軍が、何倍ものロシヤ軍を打ち破る――という破天荒なものだったからだ。
西尾と琢磨はいつも勇敢なる日本軍、それ以外の子供たちは尻尾を巻いて逃げるロシヤ軍、という役割であった。
「よし、搦め手で行く。目標、二百十高地、距離、五メートル、二時の方向!! 援護する、走れ!岸田大尉!!」
「はっ!」
西尾『大将』の下知に、岸田『大尉』はがばりと起き上がり、土ぼこりをたてながら右前方の石段の裏目がげて走り出す。
その石段が全部で二百十あったので、二百三高地を文字ってそう呼んでいた。
この戦争ごっこの天王山は、いつもここであった。
開戦したばかりでいきなり決戦というのはなんとも陳腐な展開であったが、大概子供は面倒を嫌う。
後方で「ばばばばばばば、ばばばばばばば!!」と 装弾数五、ボルトアクション方式のはずである三八式歩兵銃を、機関銃よろしく撃ちまくる西尾の声が聞こえた。
その十メートル横くらいのロシヤ軍陣地からも、ばんばんという銃声が聞こえた。
さすが数の多い敵陣地、子供たちがそれぞれに銃声の真似をしてやかましい。
中には大砲を撃ってくるものもいた。
石段の裏手は傾斜になっていて、緑が鬱蒼と茂っている。
琢磨は、その草叢の中に飛び込んだ。
続いて西尾もやってきた。
「大尉、無事か!?」
「はっ!何とか大丈夫であります!」
二人は背の高い夏草に隠れながら、額をつき合わせてお互いの無事を確認した。
急に、西尾がくつくつと笑い出した。
「?」
西尾が何故笑っているか理解できない琢磨は、首を傾げるしかない。
「琢磨、草のおばけみたいになってる」
曲がりなりにも戦闘中なので、笑い声をかみ殺しながら西尾はそう言った。
「さっき滑り込んだときについたんだな」
西尾は手を伸ばし、琢磨の顔についた草の切れ端や、緑の汁を拭ってやった。
西尾の、自分より大きい手に顔をごしごし擦られて、琢磨は思わず目を瞑った。
「ほら、とれたぞ」
「あ、ありがと…」
そう呟きながら目を開けると、西尾『大将』は鋭い口調で命令を発した。
一の谷の九郎判官、後鳥羽勢に相対する二品もかくやといった立派な口上である。
「これより二百十高地を攻略する!皇国の荒廃、この一戦に在り!各員一層奮励努力せよ!突撃ー!!」
木の棒を軍刀に見立て、切先を石段の頂上に向け、西尾は立ち上がった。
琢磨も地面を蹴って、石段の裏手の傾斜をよじ登った。
「拓ちゃん、それ東郷元帥だよ!」
「いいじゃんか、おれは日本海海戦も好きなんだよ!」
まことに勝手な西尾であったが、そういうところさえ琢磨は好もしく思っていた。
二人は後になり先になり、やわらかい腐葉土を踏みしだき、傾斜を登ってゆく。
石段のほうからは、複数の足音が駆け上がるのが聞こえた。
「岸田大尉、敵に遅れを取るなー!」
「はっ!」
はあはあと息を切らしながら、琢磨は必死に木の根や蔓を掴んだ。
頂上までは結構な高さがあったが、あともう少しで到着できそうだ、と琢磨は感覚的にわかっていた。
いつも登っている傾斜であるから、慣れたもののはずだった。
先に天辺によじ登った西尾が振り向き、琢磨に手を差し伸べて来た。
いつものことだ、それを取っていっきに登り詰めればいいのだ。
琢磨は西尾の手に己の手を伸ばすため、掴んでいた蔓を離し、同時に地面を蹴った。
ただ、今日はいつもより双方の手が汗ばんでいた。
それが不幸の始まりだった。
西尾の手に一瞬触れたのは確かだったが、次の瞬間には双方の手は離れていた。
「おい…っ、琢磨!!」
いつも自信に満ち溢れている西尾の顔が、さあっと青褪めるのを見たが最後、視界がふっと白くなった。
琢磨は、自分は『落ちて』いるのだとわかった。
その思考の片隅、遥か遠い、次元さえ異なるような遠い場所で、西尾が自分の名を絶叫するのが聞こえたような気がした。
「琢磨、琢磨ーーーーッ!!!!!」
叫びながら、がばりと上半身を乗り出し、崖の下に琢磨の姿を探す。
この高さから落ちたら、ただでは済まないだろうということが、西尾の胸を締め付けて離さなかった。
慌てて石段に回り、何事かと心配顔の仲間たちを振り切って、三段跳びで駆け下りる。
しかし、どこを探しても、琢磨の姿は見えなかった。
これではまるで、神隠しではないか――西尾は先ほどの光景を脳内で反芻させながら千々に乱れた己の思考をひとつに取りまとめようと試みた。
はあはあと乱れた息が落ち着くにつれ、ひとつの信じがたい結論に辿り着いたが、自分自身出した答えが非現実的すぎて眩暈がした。
「地面に落ちる前に、消えた…?」
西尾は、思わず口にしたその結論を振り切るように頭を振り、走り出した。
ともかくここは、何が何でも琢磨を見つけ出すのが先だ。
そう固く決意し、琢磨の名を呼ばわりながら、西尾は力の限りに走った。
とうに日は傾き、空は赤く燃え上がるかのように黄昏ていた。
遠くで蜩の鳴き声がして、それがやけに耳につく。
どのくらいの時が経ったのか、そしてここがどこなのか、琢磨には何もかもがわからなかった。
頭上から、黄色くなった竹の葉がはらはらと落ちてきた。
視界にゆらりゆらりと迫り来るそれが、とても現実のようには思えず、琢磨は横たえた身体を起こす気にはなれなかった。
意識が序々に明瞭になってくるにつれ、思考回路が正常に回りだした途端、左足の踵に激痛を覚えた。
「!…ひっ…!」
反射的に上半身を起こし、その痛みの原因に目を遣れば、自分の左足のすぐ傍に、割れた竹が血まみれになって転がっていた。
その鋭い切先が、己の左足を抉り、深い傷を刻んだらしい。
利発な琢磨は、咄嗟にポケットからハンカチを出し、その傷を覆った。
「…っ、」
瞬間、琢磨は世界の中で、自分ひとりぼっちになったかのような恐怖心に襲われた。
黄昏時は逢魔ヶ刻―――
昔、祖母から聞いた怪奇譚が思い出され、背筋に寒気が走る。
蜩の声は遠のき、鴉のギャアギャアという鳴き声が頭上を旋回する。
生暖かい風が、竹林をざわざわと揺らし、それが異界からの囁きに聞こえた。
―――泣いてはいけない。
男子たるもの、簡単に涙を見せてはならぬ、と、祖母に教えられてきた。
ただ、そう思えば思うほど、琢磨の喉は引き攣れ、左足を激痛が襲う。
―――痛い、痛くない、痛い、痛くない。
傷口がどくんどくんと脈をうつ音が、脳内に響き渡る。
もう駄目だ、誰か助けて―――、自暴自棄に近い衝動が涙腺を駆け抜けようとした瞬間だった。
「琢磨ーっ! 琢磨ーー!!」
自分を必死に呼ぶ声が、藪の向こうから近づいてきた。
「た…く、ちゃん…?」
声にならない声で、西尾の名を呟く。
琢磨が呆けている間にも、自分を探す足音が近づいて、目の前の茂みを割った。
「琢磨…っ!!」
今まで一度も見たことがない、顔面蒼白の西尾が、そこに居た。
ハアハアと息を切らし、琢磨の姿を認めると、その前に膝を折って長い長い安堵の息を吐いた。
「良かった…っ、お、おれ…、おまえが神隠しにあったかと…!おまえが突然いなくなっちまって、どうしたらいかわからなくって…っ」
ようよう顔を上げ、困ったように笑った西尾を見て、琢磨の我慢の限界がきた。
こんなに大声を出して泣いたのは、ここ数年まったくなかった。
西尾の前で泣くのも、初めてだった。
しゃくり上げすぎて苦しくて、上手く泣けていない琢磨に、西尾は慌てた。
自分が好敵手であると認めてきた琢磨の、このような顔を見るのは初めてで、どうしていいかわからなかった。
だから、好きなようにすることにした。
西尾は泣きじゃくる琢磨の背に手を回し、落ち着かせるように撫でてやった。
友の手の暖かさに、琢磨は縋った。
西尾はそれを拒まず、背中を擦りながらじっと琢磨が泣き止むのを待ってやった。
暫くすると、琢磨も落ち着いてきた。
日はもう地平線の彼方に半分以上隠れてしまっている。
かさかさと、地面で竹の葉がつむじを巻いた。
西尾は琢磨の足の傷を認めると、血を吸って濡れたハンカチをそっと解いた。
「琢磨」
呼ばれて、琢磨は顔を上げる。
「ここは、鎮守様から少し離れた竹林だ」
琢磨は、西尾が何を言わんとしているかがよく呑み込めなかった。
「おまえは、ここまで…きっと」
「きっと?」
不安げに瞳を揺らし、琢磨が鸚鵡返しに聞く。
「きっと、瞬間移動、してきたんだ」
「…!そんな馬鹿な…!」
「おれだって信じられないよ…、でも、これは現実に起こったことだ。だったらなぜおまえはあの高さから落ちて、全身打撲ではなく竹で足を切ってるんだ?」
西尾の慧眼が、琢磨の瞳を捉える。
その強い光の前に、琢磨は何も言えなくなった。
是も非も判断できない、そう逡巡を始めた琢磨に、西尾はぽつりと言った。
「…言わないよ」
「…え」
「このことは、誰にも、言わない。 …一生、言わない」
静かに、だが根底には強靭な決意を込めて、西尾はそう続け、琢磨の左足を取った。
「痛…っ」
痛みに顔を歪めた琢磨をちらりと見、西尾はその傷口を舐めた。
「…!」
舌が傷口に触れる感触に、琢磨は思わず目を閉じ肩を竦める。
「このことは、」
西尾は、転がっている割れた竹の破片を握ると、信じられない行動を取った。
「拓ちゃん…っ!」
琢磨は卒倒しそうになった。
「…二人だけの、秘密だよ」
西尾の左足から、鮮血が滴り落ち、地面を赤く染めた。
「これが約束の証」
琢磨の双眸に映った西尾は、そう言って笑顔を作った。
琢磨の大好きな、いつもの笑顔であった。
その瞬間琢磨は、生まれて初めて味わう、見えない鎖に絡め取られたような、奇妙な感覚を覚えた。
ただひとつわかっていたことは、その感覚は心地の悪いものでは決してなかった、ということだった。
昨日、大衆浴場で殺人があった。
上海ではよくある話で、血生臭さに慣れきった人々はさほど興味を示さない。
葛は、葵からその一報を聞いた。
「そうか」
葛は一言そう言っただけで、あとはいつもどおり淡々と仕事をこなしていた。
暗室に籠もり、薄暗い光のもとで現像作業を始める。
遠くで蝉の声がする。
夏は、好きだったか、嫌いだったか―――どちらでもいいような気もした。
汗が頬を伝う。
葛はそれを手の甲で拭う。
次に頬を伝ったのは、汗ではなかった。
瞬間、ジジ、という鳴き声を残し、蝉は飛び立っていった。
了
思わず5話を見返してしまって…前からあたためていた自分だけが楽しいネタを晒してしまいました;
サブタイもすごい雰囲気あって好き! この回は異色かつ白眉だと思う個人的に…!
五月といえど、江南に属する上海と違い、まだまだ厚手の上着が必要である。
遠くロシヤから吹く風は、満州里を抜け海拉爾を超え、斉斉哈爾を走り、此処哈爾浜までやって来る。
この北の地で、上海の如き青い空が見れるのは、まだまだ先であった。
「うー、寒いな…」
葵はそう言いながらジャケットの襟を立て、前を足早に歩く葛を追った。
二人は、哈爾浜一の繁華街を南北に貫くキタイスカヤを歩いていた。
『キタイスカヤ』というのは、『中国人街』という意味のロシヤ語である。
語源は、遥か昔に栄華を極めた契丹族が転じて『キタイ』となり、北アジアの人々の中でやがてそれは中国全土を指す言葉となった。
上海の黄浦江の畔に威容を誇る、三角屋根が特徴の外灘20号――キャセイ・ホテルの名も、それが欧州風に訛ったものだった。
二人は、その通りのちょうど中ほどに位置する、モデルンホテルに今日の宿を取っていた。
少しばかり贅沢だが、ここに来るまでの列車の中で見た満鉄のパンフレットに惹かれて、たまにはいいだろう、こちとら毎度毎度身体を張っているんだ――と、駄目もとで経費に計上することにした。
勿論、それは贅沢に免疫のある葵の提案だった。
葛は予想通り葵を窘めにかかったが、そこは葵も退かなかった。
哈爾浜に着くまでの数時間、コンパートメントの中で差し向かい、眼前の厳格な相方と対峙した。
「ここのカフェが最高なんだってよ」
「この建物、洒落てるよなあ」
「おまえとこんなとこ泊まりたいなあ」
「なあなあ葛ぁ、聞いてる?おれの話?」
「かーずーらー! 葛ちゃん!お願い!!」
葵の粘り強い説得に、いい加減面倒くさくなった葛は、適当なところで折れてやった。
仕方なく諾と頷いてやると、葵はぱっと目を輝かせ、両手を大きく広げて可愛い相方を抱きしめようとした。
「葛ぁ、愛して…」
「黙れ」
葛は苦い顔で素早く座席をずらし、葵をかわした。
ふたりきりのコンパートメントの中に、ゴン、と鈍い音が響いた。
空を掴んだ両手虚しく、葵が顔面を葛の熱が残る座席の背凭れにぶつけたのだった。
すぐ傍を流れる松花江を背にして、まるで夜の闇を吸い尽くすかのような明かりの中を南下する。
先達て夕食も済ませ、腹も膨れているので足取りは軽い。
折角のロシヤ料理を前に、ウォッカの一杯も飲みたかったが、如何せん任務気分が抜けない相方が応諾するはずもなく、葵は仕方なくその場は諦め、店を出るときにそれを一瓶求めたのだった。
その瓶を通りの明かりに透かして、碧がかった硝子の先に葛を映す。
キタイスカヤの絢爛な光の群れは、瓶の中で滲み、液体の隙間にたゆたう。
とぷん、と密かな音を立て、透明なその液体は碧の瓶の中で静かに弾けた。
そこに映した葛の姿が、一瞬歪み、水滴ひとつにとつに吸い込まれ、そしてまたもとに戻った。
葛の佇まいは、いつも美しい。
葵がそんなことを思いながら、視線の高さからウォッカの瓶を下ろすと、右手に万国洋行のコの字型の建物が見えた。
塔の額には1922という数字が並んでいる。
葵は、「ハッピーバースデー、テンスアニバーサリー!」と、酔っ払いのように、ウォッカの瓶を高く掲げた。
「貴様、何をしている」
「あ」
葵が振り向くと、すぐ後ろに葛が眉間に皺を寄せて立っていた。
「…恥ずかしいことをするな。目立つな。ふらふらするな」
低い声で、葛は葵にだけ聞こえるように呟く。
「いや、ほら、あそこに1922年って…」
「寒い」
「え?」
葵は珍しく要領を得ない葛の言葉に、一瞬戸惑った。
「寒いから早く宿に着きたい」
「葛…」
葵がそう言って葛の顔を覗き込むと、心なしか双眸に湛えた光が、いつもより緩み、潤んで見えた。
ここの明かりのせいなのかもしれないが、頬にさす赤みも普段より深い。
もしやと葵がその推理の結果を口にしようとしたとき、葛がくすんと鼻を鳴らした。
「先に行く」
「あ、おい、待てよ」
さっと踵を返した葛に遅れを取るまいと、葵は慌ててウォッカ瓶を小脇に抱え、花崗岩の地面を蹴った。
葛にしては珍しくポケットに両手を突っ込み、絵葉書で有名な松浦洋行の建物に見向きもせず、宿に向かって歩く。
気の多い葵は、哈爾浜の代名詞であるその建物の前で一瞬立ち止まったが、すぐに葛の後を追った。
モデルンホテルのロビーは、柔らかいオレンジ色の光につつまれ、それが格式ある調度品を照らしていた。
1906年開業のこのホテルは、巷間よく見られるユダヤ系資本であり、天井が高く、高級木を多用した重厚な造りが賞賛を集めている。
フロントに立った葵から離れた葛が、上階へと続く階段の手摺の傍でけほん、と小さく咳をした。
チェックイン作業を待つ間、葵は横目でそれを見る。
次の瞬間、フロントマンがキーを差し出してきたので、軽く礼を言い、葵はそれを受け取った。
「葛、お待たせ」
「ん」
チャリ、と音を立て、葵は部屋のキーを葛に振って見せた。
「キーは…ひとつなのか?」
「ん、ああ。居間を挟んで左右に個室がついてるタイプの部屋だからな。入り口はひとつ、ってやつ」
葵がどこか後ろめたさを秘めた声音で答える。
しかし、今の葛はそんな瑣末なことに気付ける状態ではない。
「ふむ」
マフラーを外しながら気のない相槌をうった葛は、またひとつ咳をし、小さく鼻を啜った。
「おまえ、風邪、ひいたの?」
葵は先ほど口に出すのを忘れていた問いかけを、螺旋階段の上に敷かれた高価そうな絨毯に、微かに自分の靴が沈み込むのを見ながら葛に投げかけた。
小脇に抱えたウォッカの瓶が、外気の冷えをいまだ保ち、服越しにその冷たさを微かに伝える。
「こんなもの、一晩寝ればすぐ治る」
どこからそのような自信が湧いて出るのか、葛にはちょっとした健康における自負のようなものがあった。
葛の過去がどんなものであったかは、葵には預かり知らぬ所であったが、彼が日頃ふとした瞬間に見せる折り目正しさを思うと、きっと規則正しい生活を是とするような環境で育ったのであろうことは、想像に難くなかった。
「薬とか持ってるのか?なんならうどん屋でも行くか?哈爾浜にだって探せば…」
自分たちに宛がわれた部屋の前に立ち、ガチャガチャとキーを鍵穴に挿し回しながら、葵は熱のせいでだいぶぼんやりした相方の、『らしくない』顔を、わざと悪戯っぽく覗き込んでやった。
(葛のこんな顔、初めて見たな)
葛はそんな葵の胸中を知ってか知らずか、思い出したように眉間に皺を寄せ、「いらん」とその提案を一蹴した。
だいたい先ほど夕食を腹いっぱい食べたのに、この上うどんなど入るわけがない。
だが、葵の言い分にも一理あった。
『風邪をひいたときは熱いうどんをかきこんで、すぐに薬を飲んで寝れば治る』というのが明治以来の慣習であったので、実際、うどん屋でも薬を求めることができた。
ガチャリ。
ドアが開き、葵は入り口の傍にある電気のスイッチを手探りで探した。
カチリという音がして、室内の薄暗い照明が点燈した。
「…な…!?」
葵の肩越しに室内を覗いた葛は、熱のせいで掠れた声で驚愕した。
葛が度を失うのも無理はなかった。
何故なら、広い室内には、まるでアラビアンナイトの世界のような豪奢な天蓋を具したダブルベットが鎮座していたからであった。
「…葵、貴様…、どういうことだ?」
だいぶ鼻声になってきた葛が、不機嫌さもあらわに現状の是非を問い質す。
「あっれ~…おっかしいな?」
両手を頭の後ろで組み、今にも口笛を吹き出しそうな風情で嘯く葵に、葛の神経は更に逆撫でられた。
「葵」
またも鼻をぐすんと鳴らし、眦を尖らせた葛が、彼の持ちうる最低音域で唸った。
いつもの葛ならいざ知らず、風邪っぴきのこの状態では――葵に取ってはこの何とも言えぬennuiな風情が可愛らしくすら思える――圧迫感も普段の三割、いや五割引きに感じられた。
チャリンチャリンと音を立て、落ち着きなく指でキーを弄る葵に、葛は最終通牒を突きつけた。
「もういい。おれは他の宿を取る。おまえ一人でここに泊まれ」
「おい、待てってば!」
何の迷いもなくドアから出て行こうとした葛の行く手に素早く回りこみ、葵は慌てて葛をドアの中に押し戻す。
力は、使わなかった。
「離せ」
「わかったわかった、おれが悪かったって!おれだってさっきフロントで知ったんだぜ?向こうのミスでこのスイートしか入れなくなっちまって、割引にしますからここはどうか…って謝られたら許すしかないだろ?おれは人が好いからつい『ダー、ダー』って言っちまったんだよ!」
「渡りに船」
「は?」
「そう思って、快諾しただろう」
「な…っ」
「冗談じゃないぞ、おれは行く…」
「だーっ!待てって葛!おまえ風邪引いてんだろ?そんなの相棒として放っておけるわけないだろ!おれがソファで寝るよ、な?葛?それでいいだろ?な?ここに居ろよ、な?」
ただでさえ意識に霞がかかった状態で、自分でさえもそれが鬱陶しいのに、今度は葵までもが捨てられた子犬のような目をして縋り付いてくる。
葛はもう色々と面倒になってきて、ため息混じりに、自分の袖を引っ張る葵を一瞥した。
その葛の顔色の変化を敏感に感じ取った葵は、ダメ押しの哀願でいっきに勝負を片付けようとする。
こういうところが、この男は至極敏感に、そして聡くできている。
「な?葛?」
葛は、葵のこれに弱い。
自他共に認める人懐っこさを前面に押し出しながら、少し眉尻を下げて困ったような表情を造り、首を傾げ、微笑む。
葛が動きを止めているのをいいことに、葵はドアに両手をつき、葛を自分の腕の間に閉じ込めた。
だんだん気だるさが増してきた、ここはひとつ妥協するのが得策か――後の貸しにもなりそうだ…などと、葛は近づいてくる葵の顔をぼうっと見つめながら、数々の打算を脳内の算盤で弾いた。
「いいだろ…? ね?」
まるで幼子を諭すように己の耳元で囁く葵に、もうこれ以上の問答は無用、と、葛は算盤の玉をぱちんと頭の中できれいに弾き揃えた。
「葛ぁ」
この呼び方も卑怯極まりない。
か、ず、ら、のあとに続く小さい余韻――葵の声で奏でられる「ぁ」の音の甘さは、尋常ではなかった。
滴り落ちそうなほどに甘えを含んだその声音は、反面動かぬ要求を何が何でも通すぞという意思の現れである気がする。
すぐ目の前で、甘い雰囲気を醸しながら己の顔を覗き込んでいる葵に、葛はまた先ほどと同じように、諾、と頷いてやった。
実際問題、さっさと寝て明日に備えたかったという事由が、葛が首を縦に振った一番大きな動機となったわけだが、葵は自分が受け入れられたと錯覚し、またもや目を輝かせると、両手を大きく広げた。
「葛ぁ、愛して…」
「いい加減にしろ」
今度こそ絶対に自分の腕に葛を抱きしめたいと思った葵だったが、残念至極、その両腕は虚しく空をきる。
「先に入る」
葛の声が、後方のバスルームから聞こえた。
(きったねえ、葛! こんなことで力使ったな!?)
そう葵が思ったときには、麗しのモデルンホテルのスイートに、ゴン、という鈍い音が響いた。
「…ってえ~!」
本日二度目の失態に、葵は額をさすりながら悪態をつく。
そんな葵に葛は冷たい。
「ドアが無事なら、それでいい」
バタム、とバスルームのドアが閉まり、シャワーの音が響き始めた。
「ったく、風邪引いてるくせに風呂なんか入りやがって…!」
綺麗好きにもほどがある。
しかし、石鹸の匂いのする葛も、途方もなく捨てがたい。
ここはひとつ、風呂は止めないでおこう――
にやりと笑いながら葵は思った。
(ああは言ったけど、おれはソファで寝る気なんて、更々ないからな)
キタイスカヤの光の中に、座しますホテルは当代一のモデルンホテル。
嗚呼、麗しきロマノフの香りよ―― いまは彼方に消えるとも、君の香りは僕の傍。
窓の外では、煌々と妖しく光るランタンが、いっそう濃くなった夜の帳を臙脂に染め上げていた。
つづく
初出:6/16 追記:6/17、18 完成:6/19
意味不明でスミマセン(泣) 長くなりそうなのでいったんここで終わっときます。
別記事でいつか続編を書きたいと思っています、が…;
このあとは にゃんにゃんしてもらうわよ…!(え)